カズオ・イシグロの2冊と僕が子ども時代を語る理由

投稿日:2017年10月11日 更新日:

僕はカズオ・イシグロの本を2冊しか読んでいません。「日の名残り」と「わたしを離さないで」です。しかし、彼の小説家としての動機は、作品をとおして僕の心を揺さぶり、僕が子どものころの郷愁を言葉に残す出発点となりました。

この記事は小説の内容に触れる部分があります

 

kazuoishiguro

Fabian Møller

 

23年前、大江健三郎の帯書き

小説「日の名残り」は中央公論のハードカバー1994年10月10日8版を持っています。帯には「映画化公開中」とあります。調べてみると映画「日の名残り」の劇場公開は1994年3月になっている。この時間の前後は何を意味するのか。帯だけ流用されたのか。真意は謎ですが、とにかくそのころ僕はこの本を本屋さんで買いました。

おもしろいことに帯書きに大江健三郎が言葉を寄せています。その一節に「僕はかれの粘り強い知性に驚く」とあります。

今般のノーベル文学賞の授与にあたり財団は「『世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵(the abyss beneath our illusory sense of connection with the world)』をあらわにしたこと」(出典:ロイター/東洋経済オンライン)を挙げています。国内の一部メディアは「幻想的な感覚」の部分を「幻想」と翻訳していますが、僕にはこのほうがしっくりくる。

大江の言う「粘り強い知性」とはまさにこの「幻想的な感覚にひそむ深淵」に挑む姿勢のことだったのではないか、と腑に落ち(2017年10月15日追記:のちにその神髄は「充たされざる者」にあったと気づき)ます。

ところで、僕はなぜこの本を手に取ったのでしょう。「ブッカー賞」受賞作であったことは否定しませんが、何よりそのタイトルに惹かれた記憶があります。当時、僕の会社は隆盛のピークをやや過ぎたころにありました。トップとして、クリエイターとして、よく言えばやり切った感、正直言えばつぎへと突き抜けられない憂鬱に襲われていたのです。そんな僕に「日の名残り」という言葉は一つの癒しを暗示するものでした。事実、よい時代を振り返ったときの執事の寂寥は、そのときの僕の心情とシンクロするものでした。

 

あのときの行動の意味

後に言語化され評価の対象となった「幻想的な感覚にひそむ深淵」について触れておきましょう。

ある朝食のシーン。新しい主人が目の前に置かれたフォークの先を何気なく指で触れ確認します。それに気付いた執事はフォークの交換方法について逡巡します。一流の執事としてどのように対応すればよいか、しばし主人の心をおもんばかり、最適の解を導き出そうとします。

そして執事はあえてあからさまな行動にでるのですが

ファラディ様はまた少しはっとされ、私を見上げて「ああ、スティーブンスか」と言われました。
出典:「日の名残り」カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 中央公論社

この劇的な落差の先にある主人と執事の心情を、僕は想像してやみません。

人生はつねに選択の連続です。その結果について人は一喜一憂します。落胆や後悔はつきものですが、あるとき「人は選択でき得る最良の選択しかできない」と思い至りました。なぜなら人は若干複雑ながらもすべての動物に与えられた「生き延びようとする意思」を持っているからです。そのとき持ち合わせた知識と生まれ持った本能に裏付けられた選択を否定したところで意味はありません。

しかし、それでも僕は過去の行動の意味を分析せずにはいられない。それもまた人の性なのでしょう。そしてあのときとった行動や意識の変化の道筋を振り返り、整理して、その出来事が自分に教えてくれる真意に気づくことがあります。この世界にはそうした未知の感覚がたくさん存在していることを、この本は教えてくれているように思います。

 

愛する1冊

僕が「日の名残り」を本棚に並べてから十数年後のことです。連れ合いが「きっと好きだと思う」と読み終えた文庫本を手渡してくれました。それが小説「わたしを離さないで」でした。

カズオ・イシグロなら昔読んだことがある、と「日の名残り」を本棚から探そうとすると「もう読んだ」と彼女は言います。家にあることを知らなかった彼女は文庫本を購入していたのでした。

僕の知らないところで彼女はカズオ・イシグロのファンになっていました。

「わたしを離さないで」は不思議な物語です。日常の背景が根本的に異なるディストピアを描いているにも関わらず、そのリアリズムは頑強です。青春のせつなさは生きることのせつなさと重なり、それらすべてが望郷のせつなさへと変化していく。その一つひとつのエピソードが私事(わたしごと)として胸に迫ります。

宝物のカセットテープ。コテージへの転居。失ったものがうちあげられる海辺の町への小旅行。希望と失望を繰り返し、彼と彼女、そして僕は生きています。

なかでも印象的なのが森を抜けた湿地に座礁した古い漁船です。主人公たちは意味も分からずそこに存在する大きな船をかつて自分たちが生まれ育ち、いまは閉鎖されている施設になぞらえます。水に浸かる無用の長物に親しみさえ感じた彼女・彼らには、きっと社会的な使命を終えたのちの自分たちの理想の姿が見えたにちがいありません。それは広い空の下、静かにただ横たわる安息へのささやかな希望です。

この後主人公たちは、生きる可能性を探るため施設でまことしやかにささやかれていた噂を確かめにマダム(施設のオーナー)の家を訪問します。人は失意のなかにあってなお、つねに新しい希望をみつけ、前に進もうとします。

 

なぜ僕は子ども時代を語るのか

カズオ・イシグロは小説家としての動機について「記憶」に興味があることを挙げています。この小説「わたしを離さないで」でも、主人公は終章で愛した人の忘れえない記憶に勇気を得る一方で、押し寄せる記憶を押しとどめる決意を見せます。「記憶」は生きてきた証左であり、自信であり、そして決別することで成長への糧となるものということでしょうか。

僕はこの小説を読んだのち、文章のみアップできるNisshiというブログサービスにアカウントを持ちました。それまで留めておいた懐かしい出来事をそこでいっきに解き放ちました。その一部を推敲したものが、たとえばこのブログの「野よばれ」であり「龍宮城を知っている」です。

カズオ・イシグロの「記憶」への執着に僕は共感します。もともとヘルマン・ヘッセの子ども時代の物語を愛していたのですが、彼らの小説の成り立ちは「記憶の理解」であることに気づきました。カズオ・イシグロに出会ったことで僕は、僕の記憶をしっかり理解しなくてはと思うようになったのです。

記憶が想像せよと働きかけてきます。期待に応えるべく、僕は語る作業をまだまだ続ける必要があるようです。

 

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