紀貫之先生、なぜ桜ではなく梅なんですか?そのもう一つの答え

投稿日:2017年10月21日 更新日:

「花ぞ」の花は梅

東進の「全国統一中学生テストTVCM」で、先生が板書をしながら生徒に注意をうながします。

「この、花ぞの花は梅だからな」

すると一人の生徒が手を挙げ質問します。

「なぜ桜じゃなくて梅なんですか?」

さて、あなたはその理由をご存知でしょうか。これには受験に役立つ答えと、受験にはたぶん役立たないけどなかなか興味深い答えの二つがあります。

 

hanazo

 

受験対策のための答え

そもそもあの先生は黒板に何を書いていたのでしょうか。画面にのぞく「花ぞ昔」の文言から、つぎの和歌が想像できます。

人はいさ心も知らず 
ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

出典:古今和歌集 紀貫之

平安前期の歌人・紀貫之の有名な歌です。

現代語に訳すと

ほかのひとのことはどうかわかりませんが、故郷のように慣れ親しんだこの場所は、梅の花が昔なじんだあの香りを漂わせ咲き誇っています

となるでしょうか。

「ほかのひと」が唐突に思えますが、この歌には詞書(前書き)があります。そしてこの前書きに「なぜ梅か」の答えが示されています。

この歌は、久しぶりに訪れた宿の主人に無沙汰を問われた際に、庭先の梅を手折って詠んだものなのです。

それを知ると、貴族の粋な立ち居振る舞いがリアルに浮かび上がってきますね。場の情景と心の情景を同時にとらえた素晴らしい歌です。

この前書きを知っているか、知らないかで歌の趣がまったく異なります。

ただし、この前書きを知らずとも直感的にわかる語句が配置されています。それは「花ぞ昔」のあとに続く「の香」の部分です。香る花といえば「桜」ではなくただちに「梅」が想像できます。(「百人一首好き」様よりコメントをいただき、この部分の解説が不足していることに気付きました。ありがとうございました)

 

梅から桜の時代へ

では数多くある花のうち、このCMはなぜ「桜」と「梅」を引き合いに出したのでしょう。

民俗学者・和歌森太郎の「花と日本人」には

「万葉集」に現れる花の中では、萩の花についで梅が最も多い」
「梅の花は、よくかざし、かずらに用いられたものだが、春の酒宴や遊興に集う大宮人にとって、梅を身につけることは、欠かせぬ飾りであった」
「梅が大陸から渡来の樹であった事情によってか、唐風文化に傾注した、教養ある貴族のこれに寄せる関心は深かった」
「梅が中国の詩人に早くから多くとりこめられたので、彼地の詩にならって、漢詩をつくるものも、いきおい梅に詩材を求めることになり…」

出典:和歌森太郎「花と日本人」角川文庫(絶版)

とあります。

万葉集は「延暦25年(806年)以降」(出典:ウィキペディア)に完成されたのではないか、とされています。

それより少し前794年に都が平安京に移され平安時代が始まっています。つまり「花といえば梅」とされた万葉集は前時代の歌を集めたものでした。

一方、紀貫之の生没年は866?~945?年ごろ(出典:ウィキペディア)。古今和歌集の完成は延喜5年(905年)または延喜12年(912年)頃(出典:ウィキペディア)。いずれも平安時代に入ってからです。

紀貫之が「花ぞ昔の香」と詠んだ平安初期は「花といえば桜」の時代へと様変わりしていました。(僕は当初、この事実[常識]を知らずこの歌は「花といえば梅」の時代のものとして解説していました。誤った情報を流布してしまい申し訳ありませんでした。コメントで気づきを与えてくださった「百人一首好き」様にはたいへん感謝しております。)

前出の「花と日本人」には、こう書かれています。

平安京の大内裏のうちにも、内裏のなかの紫宸殿の南庭にも桜が植えられていた。いわゆる左近の桜として右近の橘と相対した。

『日本後記』の嵯峨天皇弘仁三年(八一二)二月十二日の条に、

神泉苑に幸して花樹を覧る。文人に命じて詩を賦さしむ。錦を賜うこと差有り。花宴の節、此より始まる。

とある。

(中略)

とにかく神泉苑での花見の宴会が、平安朝の文芸を育てる機会になったのである。

出典:和歌森太郎「花と日本人」角川文庫(絶版)

引用中の「花樹」が桜であった可能性は極めて高いようです。

なぜならその前年にはつぎのような出来事があったからです。

嵯峨天皇は地主神社の桜を非常に気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたといい、当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる

出典:ウィキペディア 原典:『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語、NHK, 2015年3月25日

このため

「古今和歌集」では
「梅」の歌が18首に対して、桜の歌は70首と桜の割合が増えた。

出典:古今和歌集の桜歌

とされています。

なお梅を珍重した唐風文化の契機となった遣唐使は寛平6年(894年)に廃止されています。紀貫之が28歳前後の出来事でした。

天皇家にとって忌まわしい平城京時代、長岡京時代から一新すべくして遷都した平安京で、かつて一世を風靡した唐風文化は廃れ、たぶん温故知新の機運が高まったのでしょう。梅から桜への心変わりは新風への切なる願いだったに違いありません。

紀貫之が「花ぞ昔の香」と詠んだこの歌は、ちょうど文化が唐風(梅)から大和風(桜)に転換した直後でした。時代背景にとらわれると、つい桜を想像しがちですが、あえて主題に梅を持ってきたところに紀貫之の真髄があると思います。

 

もう一つの答え

紀貫之は「花ぞ昔の香」に有為転変のはかなさを詠んだのではないでしょうか。

「ふるさとといえば香りなつかしい梅の花だが、いまはすっかり桜に夢中になっている」「梅よ、梅よともてはやしていた時代の宿の主人との交流も、こうして時が移り、ご無沙汰になってしまった」

そんな哀しみ、じくじたる思いを読み解くことができます。

そしてそれは多くの貴族たちの共感を呼ぶものだったに違いありません。

 

「紀貫之先生、なぜ桜ではなく梅なんですか?」

「僕はね、ひとの移り気を詠みたかったんだよ」

 

受験の役には立ちませんが、そんな先生の遠くを見つめる素顔が想像できるのも、この歌の魅力ではないでしょうか。

 

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昭和半ば生まれのおじさんです。妻と娘と猫と金魚と東京西部にひっそり暮らしています。息子夫婦に孫娘ちゃんもいます。「くらしとこころにそらより」うるおいを降り注ぐ記事をめざしています。

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