自惚れているひとを「しょってる」と言います。漢字で書くと「背負っている」。
若い方はもう口にしないようです。死語に近いのかもしれません。でも僕は今朝ふと疑問に思いました。
「いったい何を背負っているのだろう」。
「自惚れ」は他人より自分が優れていると思うことです。つまり「思い上がり」。であるならば「あがってる」のほうがしっくりきます。「自惚れ」に近い意味の言葉にはほかに「ナルシシズム」があります。これも「ナルってる」のほうがわかりやすい。
でも、彼は、彼女は、そして僕は何かを「背負っている」のです。
「しょってる」は自己愛
まず「自惚れ」を分解してみます。「自分」に「惚れる」です。つまり過剰なる「自己愛」。では「自分を愛する」とはどういう行為でしょう。
この場合「愛」を発動するには、もうひとりの自分が必要になります。理想の自分が、巷間にある自分を評価します。まるで雲の上から見下ろす神のように。
そうでなければ愛を施すことはできません。愛は水のように高いところから低いところへ、そして大いなる者から小さき者へのみ流れるものだからです。「自己愛」にも愛する者と愛される者の2者が不可欠というわけです。
愛の前には小さくあるべき
「高きところから低きところへ」あるいは「大いなる者から小さき者へ」の例は救済の技法として大乗仏教に見ることができます。
親鸞は阿弥陀の教えから「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の解釈を発明します。阿弥陀仏は衆生一切を救済しなければ仏にならぬと誓願(悲願・大非)を立てました。既に仏になっているということは救済がすでに約束されている。ならば尊いお考えの御仏が最も救いがたい悪人を救わないわけがないと考えたわけです。
「他力本願」の意はここにあります。
柳宋悦はその著「南無阿弥陀仏」で、「天上天下唯我独尊」の即非の景色として「唯我独悪」を示した後
「自分こそこの罪人の罪人だと気附かせてもらうと、世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小に小なのであるから、自分に非るものは無限大に大となる。
(中略)
ここで小が大に接し、穢が浄に即する。否定が肯定に直結するのである。この転換の刹那を、我よりすれば往生という」
出典:「南無阿弥陀仏 付 心偈」柳宋悦 岩波文庫
と説きます。
これは「自己愛」の対極にある精神です。つまり自分を無限に小さくすることで救いの手を伸べやすくするという発想なのです。
自分を愛するさらに大きな自分
「他力本願」に小さい自分がある一方、「自己愛」においては巷間の自分の存在を大きく尊いものとして扱います。
すると、どうなるか。
それを愛さなくてはならない、もうひとりのさらに大きな自分が必要となります。仮想として生み出された巨体に自分を律すべきフラットで厳格な視点をもはや求めることはできません。そこには怠惰な神があるのみです。
ここでしょってるひとの「背負っている」ものの正体が明らかになりました。
人びとは甘々な審判者であるもうひとりの彼を、彼女を、僕を、本人の後ろに見て取り「しょってるね」と笑うのです。
「凡夫のくせに凡夫でないと振舞をするのが妄執の悲しさである。その妄執が済度の邪魔をする。凡夫だと分からせて貰えば身を投げ出すより仕方がなくなる。この時のみが我執の絶える時である。それが絶える時が、浄土に迎えられるその時である」
出典:「南無阿弥陀仏 付 心偈」柳宋悦 岩波文庫
ここで浄土の存在は重要ではありません。自ら救済する手段としての哲学上の比喩と捉えるべきでしょう。
しょってしまいがちな僕が「南無阿弥陀仏」に学びたい一点がここにあります。
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